語りの可能性 小砂川チト『ゾンビ回収婦』(講談社)

小砂川チトの『ゾンビ回収婦』は、第175回芥川賞受賞作である。芥川賞受賞に際して選考委員から「混沌の中を貫くスピード感にさらわれ、気づくと自分も瓦礫の一部になっていた」(小川洋子)、「新奇な世界を、さまざまな読み方を呼び込み得るだけの質感ある世界を、現出させることに成功している」(奥泉光)などと評されている。

本作は「わたし」によって語られ、5つの章からなっている。ぞれぞれの章の長さはバラバラであり、これらは場面として分けられているのではないが、基本的には時間軸に沿っている。それぞれの章の内部には「〇」を挟む形でで大きな場面の切り替え、一行空けよる小さな場面の切り替えが見られるが、すべての一行空けが小さな場面の切り替えというわけでない。例えば、次のような場合が多い。

 無職の夫は地べたに正座、無職の妻はソファに立て膝したきり、たがいちがいに腹部をふくらませたり萎ませたり目をしばたたいたりし続け、昼になり、夜になった。

 AIだよ。せんぶAIのせいだよ。

 あるときわたしはきゅうに意識を取り戻し、やっとのことで口をひらいた。
 AIにわたしたち、仕事を盗られたんだ。……そうだよね?(pp.7-8)

この「AIだよ。せんぶAIのせいだよ。」は「わたし」の心中思惟なのか発話なのかわからないものの、前後に一行空いていることで強調されている。同様の表現が相当な数用いられ、加えて、太字、ゴシック、イタリック、記号が多用されている。こうした表現は「わたし」の思考や知覚を同時に経験しているような現前性の高いものとして読み手に認識されるものである。

しかし、こうした表現のなかにあってゾンビを「あなた」「あなたたち」と二人称で呼ぶことは違和感には抱く。

 幾つかのことが起って、わたしはこのホテルのNPCになる。

 それからのわたしは来る日も来る日も、あなたたちの身体を回収することに専心した。

 銃撃が止み、六日ぶりに配膳用エレベーターから這い出ると、ようやく深く息をつくことができた。冷えきった外気、霜柱、雪と雪のしたの湿った土や枯れ葉の匂いを肺いっぱいに入れ、陶然としてわたしは、そのまま鼻歌を歌いはじめる。(pp.20-21)

ここには「あなたたち」とあるが、他の箇所では「あなた」も使われ、これらの呼称は「ゾンビ」を呼ぶものである。普通、二人称は呼びかけであり、現前性が高い場合には呼びかけられる人が明確である必要がある。もちろん語りの場が明確で回想としての要素が出てくれば、現在から過去の「あなた」への呼びかけとしては機能するのであるが、本作では、先述したように現前性が高く、それでいて語りの場が明確でないことによって回想の物語として読むことは拒否される。ただ、こうした違和感は「わたし」の語りの観点から拙さを指摘するものではない。ゾンビを「あなた」「あなたたち」と本来は呼べるはずがないのに呼んしまっていることに「わたし」が現実と仮想現実の区別がなくなっていることが象徴されている。こうした現前性の高い表現と二人称の呼びかけ組み合わせられることで、本来、現実と切り離すことのできない時間概念が、作品のなかでは無効にされている。

本作は、現実と仮想現実の境界の曖昧さを表現する上でVRという設定が効いているのは当然だが、先に指摘したような「わたし」の語りがこうしたことを表現することを助けていると言えるだろう。